2012年4月27日金曜日

文明への道(前7000-4000年)(9)メソポタミアの初期村落



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・47頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 『文明への道

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 『(前7000-前4000年)
 「(前7000-前4000年)

 《メソポタミアの初期村落
 「メソポタミアの初期村落

 無土器新石器時代の定住集団は、

 メソポタミア低地のまわりの丘陵地に集落をかまえていた。

 運よく天水農耕地域外の資源を利用しえた地域も少しはあった。

 土器新石器時代になると、

 集落は天水農耕地域に広く営まれるようになった。

 今日のイラクでこうした遺跡の最古のものは前7千年紀前半に属し、

 チャタル・フユクと同じ時期にあたる。

 チャタル・フユクのように洗練されたものでもない。

 しかし、実際の状況はもっと複雑で

 もっと多岐にわたった活動が行われていたようである。

 こうした土器新石器時代初期の文化は、

 次のハッスーナ文化へと発展していったことから、

 原ハッスーナ文化と呼ばれることがある。

 土器は大半が粗製で、粘土にわらを細かく切ったものを混ぜたものだった。

 器形も単調で、広口ないし深鉢、円筒形の首のついた丸い壷、

 円形や楕円形の平たい皿などがあった。

 皿のなかには内側方万こぽこのものや畝がついたものがあり、

 それらは穀物の下ごしらえ用と考えられている。

 鉢類の表面には、よく粘土ひもが貼リつけられており、

 なかには幾何学形や動物形のものもつけられた。

 より精巧な土器もあって、

 その6分の1くらいは赤で簡単な模様が描かれた。

 もっと焼きのよい黒灰色の磨研土器も

 この地域の遺跡で出土する。

 それらはよリ進んだ西方地域からの輸入品だった可能性がある。

 この時期の人々は、

 突き固めた粘土(アラビア語でタウフという。ピゼと呼ばれることもある)で

 つくった長方形の家に住んでいた。

 家はふつう二つか三つの部屋から成っていて、

 おそらく一家族が生活していたものとみられる。

 ほかには何本かの壁を平行に並べた土台をもつ建物もあり、

 乾燥台と呼ばれている。

 一辺が2mにも満たない小さな部屋が枡目状になった建物もあり、

 それは貯蔵庫と考えられている。

 ヤリム・テペⅠ遺跡では丸形や方形の特殊な建物がつくられており、

 死者の埋葬に使われていた。

 遺体はバラパラにされていた形跡がある。

 テル・ソットに埋葬されていた若者もそうした処理を受けていた。

 頭部、腕および肩胛骨、両脚と骨盤の半分を切り離し、

 残りの骨の上に重ねて埋められていたのである。

 これが成人の埋葬の一般的なやり方だったのか、

 特別な人物のみに対して行われたものなのかは不明である。

 幼児はふつう、住居の床下に埋葬され、

 ときには土器のなかに入れられていることもあった。

 この時期の遺跡のほとんどは、

 天水農耕地帯内に位置している。

 植物、動物遺存体からわかるように、

 典型的な農耕牧畜経済が営まれていたといえる。

 一粒系、エンメル、パン、クラブ、スペルタコムギ、

 六条裸性オオムギ、レンズマメ、エンドウマメなどをすべて、

 この時期の人々は栽培していた。

 家畜種のウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、イヌを飼っており、

 野生動物は出土する動物骨の5分の1にもみたない。

 ウシはヤギやヒツジと比べると大きいし、

 凶暴だから飼育はむずかしかったにちがいない。

 それらは、肉、皮用としてだけでなく、

 ミルクや運搬用にもなっていたのだろう。

 あるいは梨をひっぱらせる目的もあったのかもしれない。

 当時すでに北メソポタミアでは、

 広大な平原を耕作するのに梨が使われていた可能性がある.

 言語復原史学会
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 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
 ウワイト(倭人):大学講義録
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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