2012年2月27日月曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(12)《新石器時代の村》



『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・28頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

 《新石器時代の村
 「新石器時代の村

 近東の村の生活は、

 新石器時代から19世紀後半まで

 ほとんど変わっていなかったように見える。

 しかし、古い時期についての私たちの知識は、

 有機物がめったに残っていないから、

 ほとんどが石器や骨器

 建物跡に基づいたものでしかない。

 死海近くのナハル・へマル洞窟は非常に乾燥していたため、

 さまざまな遺物が保存されており、

 織物、篭類の破片、

 木製品やビーズなどが出土した。

 当時の宗教生活を復元するヒントになるような遺物も残っていた。

 ただ、踊りや神話なども豊富にあったに違いないが、

 それらについては今では知りえない。

 写真:色を塗られた石製仮面

    ナハル・へマル遺跡から出土、

    なんらかの儀式に使用されたものかもしれない。

    ナハル・へマルの遺物はもともと、

    神殿かなにかの宗教的機関に属していたものと考える研究者もいる。

 図:もっと古い住居は丸い小屋で、地下に堀こまれていた。

   これは、北イラクの原新石器時代の遺跡
   
   ケルメス・テレの例である。

   それらの住居は単なる休息の場でなく、

   集団の精神生活の中心地としての役割も果たしていた。

   石と漆喰でできた柱、

   および、廃屋の床面におかれていた人間の頭骨によって、

   この家でかって行われた儀礼がどんなものであったかが知られる。

 写真:ナハル・へマル出土の骨製ホックないしバックル、

    および、木器類、石器・木器には

    留め針、縫い針、錐、やじり、槍や銛先などがあった。

 写真:ナハル・へマル出土の鎌

    天然アスファルトを接着剤に使って、

    フリント製の石刃を木製の柄に取り付けている。

    草を刈るのに使われていた可能性がある。

 写真:イェリコ出土の石製乳鉢・乳棒

    これは、食料の下ごしらえから顔料の制作まで、

    さまざまな用途に使われた。

    類似した道具はナトウーフ期以降、

    

    イスラム期まで使われていた。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状  

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(11)《原新石器時代》


『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・27~33頁
マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
朝倉書店

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

原新石器時代

レヴァント地方ではナトゥーフ期の次の時代を

原新石器時代ないし先土器新石器時代A期と呼んでいる。

原石石器時代の遺跡はナトゥーフ期のものや、

後の無土器新石器時代(先土器新石器時代B期)のものよりも少ない。

おそらく、これは開発による土地の疲弊と降雨景の減少で自然の恵みが減り、

人口の減少したせいだと思われる。

そうして、後に栽培植物、家畜動物に依存するようになっていったのたと思われる。

この時期でもっとも注目すべき遺構は、ヨルダン渓谷イェリコ遺跡でみつかっている。

ここでは前9000年頃には、

大きな泉の脇で集落が成長してきていた。

人々は直径5mくらいの円形住居に住んでいた。

こうした住居は、前のナトゥーフ期同様、一部、地下に堀りくぼめられており、

短い階段でなかにおりていくようになっていた。

壁は手づくりのレンガでできていた。

それらは、上面が丸みをおびていて、粘土を日干しにしてつくったものである。

日干しレンガは今日でも近東では重要な建築材料となっているが、

これが今までわかているかぎり、

これが今まででわかっているかぎり、最古の例である。

日干しレンガには数多くの利点がある。

どこでも手に入るし、つくるのも簡単で、使うのも楽だ。

構造的にもしっかりしているし、断熱性もある。

ただ、水にふれるとすぐ溶けてしまうから、

毎年ていねいに手入れする必要がある。

したがって、一つ建物が壊れると、レンガの再利用はせず、

そこを平らにならして、その上に新しい建物をたてることになる。

こうして、建築がくり返されると丘ができ、

それが近東でももっとも典型的な形をした遺跡となるのである。

アラビア語ではこれをテルといい、

ペルシア語ではテペ、

トルコ語ではフユクという。

イェリコの原新石器時代文化層には約25の建築層が重なっていて、

高さ10mの丘を形成している。

この時期にはご大きな石壁と塔が壊れた建築物の上につくられている。

塔は壁の内側につけられていて、遺跡の西側にたっており、

壁はそこから北に南へと延びていた。

もし壁が、泉のある東部を除いて集落を全部囲っていたとすると、

イェリコの遺跡は3-4haの面積を占めることになる。

人口の見積りは400人から3000人まで可能だが、

1500人くらいというところが妥当だろう。

壁は1万トン以上の石を使ってできているから、

そのためには多大な労働力だけでなく、

相当な政治的な計画性、組織が必要だったはずである。

そうした壁や濠、あるいは塔の建築目的ははっきりしない。

当初は外敵の侵入に対する防御施設と考えられたが、

洪水に対する備 えたったことも考えられる。

イェリコの原新石器時代層からは、

栽培植物についての証拠もえられている。

皮性二条オオムギの穀粒が六つ、

エンメルコムギの穀粒が二つ、

さらにマメ、イチジクの種などが発見されている。

しかし、それらを放射性炭素年代測定にかけたり、

あるいはもっと類例がみつからない限り、

後の時代からの混入という可能性は残る。

ネズミやアリがもちこんだのかもしれない(そんなことはないと思うが)。

イェリコで出土している動物骨は家畜種というよりは、野牛種である。

それにガゼルが多くて今年やヒツジが少ない。

このパターンは、狩猟を行っていたそれ以前の時期と共通するもので、

次の新石器時代、

つまり、ヤギやヒツジを群れで飼うようになった時期のものとは異なっている。

イェリコがなぜ栄えたのかはっきりしない。

泉でえられる豊富な水を使って植物栽培がなされていたのかもしれないし、

周辺地域の中心地という地の利を生かして

死海でとれる塩や天然アスファルトで商売していたのかもしれない。

東部ユーフラテス川畔にあるテテル・ムレイビト

ナトゥーフ期から無土器新石器時代にまたがった遺跡である。

ここでは円形ないし楕円形の住居が

原新石器時代の古い時期から後期まで連続的にみつかっている。

なかには、一部屋士なく、

長方形の部屋がいくつもつながった建物も発見されている。

これは。

社会組織が複雑になってきたことの表れとされている。

原新石器時代層出土の動物骨によれば、

人々は野生のロバ、ガゼル、ウシを狩っていたことがわかる。

植物では野生の一粒コムギ、野生オオムギ、レンズマメ、ニガソラマメなどが

食用となっていた。

おもしろいことに、

野生の一粒コムギは現在この地域には生育していない。

したがって、テル・ムレイビトではそれらが栽培されていたのかもしれないが、

野生一粒コムギの当時の分布が現在のものと同じではなかった可能性もある。

『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』 

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《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月26日日曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(10)《ナトウーフ期と同時代の諸文化》



『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・27~30頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

 ナトウーフ期と同時代の諸文化

 ザクロス山脈およびその山麓部の文化については、

 ナトウーフ文化ほどにはわかっておらず、

 調査された遺跡もごくわわずかしかない。

 サグロスの遺跡でみつかっているフリント石器は

 レヴァント地方のものと似ており、

 さまざまな動植物を利用していた狩猟採集民が残したものと考えられる。

 しかしながら、

 磨石の利用や開地への集落の移動は西方の地域よりも遅れて始まったようだ。

 北東イラクの開地遺跡サウイ・チェミでの調査によれば、

 前1万年頃には、この遺跡の人たちも磨石を用い、

 円形住居に住み始めたようである。

 レヴァント地方ナトウーフ文化同様、

 墓には個人的な装飾品などを副葬していた。

 シャニダールではこの時期の墓地がみつかている。

 この洞窟はもっと古いネアンデルタール人骨で勇名なところだが、

 この墓地からは26基もの墓が発見された。

 このなかには1500もの小さなビーズを頭にまいた子供の墓や、

 フリントの刃を骨製の柄に天然アスファルトで装着した

 ナイフが添えられられていた女性の墓などあった。

 シャニダール洞窟に埋葬されていた成人人骨には、

 子供の骨がともなっていることがしばしばあった。

 これを人身御供と考える人もいる。

 ザウイ・チェミからは一群の奇妙なものが出土している。

 15頭分のヤギの頭骨、17羽ほどの大形の猛禽類(ほとんどがオジロワシ)の

 骨がまとまって出土したのである。

 鳥骨の大半は翼のもので、しっかりくつついているものもいくつかあった。 

 骨についている傷をみると、翼は切り落とされたものらしい。

 鳥の翼とヤギの頭を身にまとってなんらかの魔術的儀礼が

 とり行われていた可能性もあろう。

 もっと時代は後になるが、

 チャタル・フュクの壁面にそうした情景か描かれている例がある。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
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 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
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2012年2月25日土曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(9)《ナトウーフ期集落のパターン》



『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・27~30頁
マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
朝倉書店

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

ナトウーフ期集落のパターン

近東には野生の穀物が現在でも生育している。

熟したときに2-3週間もあれば、

一家族が一年間食べるくらいの量を集めることができる。

しかしながら、穀物の生育地を移動させることはむずかしいし、

磨石など重い装置が必要なことから、

ナトウーフ期には定住生活が好まれたものと思われる。

集落には一年中居住することもあったろうし、

ある期間だけのこともあったであろう。

村落や野営地は野生穀物の生育地に設営されたが、

より短期的な野営地が狩猟を目的として別のところに営まれることもあった。

集落遺跡には開地のものと、岩陰の前庭部のものとがあった

開地遺跡の場合、

建物は簡素で、木の柱で屋根を支えた小屋のようなものだったが、

地中にlm以上も掘りくぼめてつくるのが一般的であった。

その方が建築も楽だし、断熱・防寒にもなったからである。

家にはふつう、炉が一つ備えられ、

床面には石が敷きつめられた。

アイン・マラツハの例では、

家の直径は3.5-5mくらいである。

建て替えもさかんにみられるから、

一年中居住していたのだろう。

この遺跡では9軒の家がみつかっているが、

実際には50軒以上立ち並んでいて、

200人-300人くらいの人々が住んでいたものと思われる。

現在の狩猟採集民は一集団あたり30人くらいだから、

それよりもはるかに大きな集団だったわけである。

家の床下から何人分かの人骨がみつかっているが、

集落から離れたところに埋葬することもあった。

単葬もあれば、

数人分を複葬することもあった。

副葬品はまれだったが、

個人の装飾品は身につけたまま埋葬するのがふつうで、

貝や骨のビーズでつくった

頭飾り、ネックレス、ブレスレット、足首飾りなどがあった。

『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』 

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《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

2012年2月23日木曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(8)《ナトウーフ期》



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・27~30頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

 《ナトゥーフ期

 ナトゥーフ文化は前1万1000年から9300年頃まで存続したものだが、

 ケパラー文化よりも広い地域に広かった、パレスティナとレヴァント地方ではぼぼ全域でみられ、

 関連する遺跡はシリアのユーフラテス川沿岸、さらにその東部からも知られている。

 ナトゥーフ期には穀物を主要な食料資源として利川していたという証拠は、いっそうはっきりしてくる。
 
 ナトゥーフ文化の遺跡では、磨石、炉、貯蔵穴などがみつかるし、

 野生の二条フドオムギや一粒コムギ、あるいはカシの実、

 レンズマメ、ヒヨコマメ、エンドウマメといった野生の植物食料の炭化物も発見されている。

 野生の穀物の種子には圃い皮が密着していて、それらはあぶったりすったりしないと取れない。

 また、野生穀粒の穂軸(中軸)はもろい。

 これは非常に簡単にこわれてしまうもので、

 そうなると穀粒はバラバラになってしまい収穫が困難になる。

 人々が種子を播き、穀物を収穫することになれてくると、

 彼らはより丈夫な穂軸のついたものを選ぶようになった。

 その結果、今では穂軸の違いが穀物の野生種と栽培種とを区別する基準の一つとなっている。

 近東では2種類の野生コムギがみつかっている。

 一粒コムギとエンメルコムギである。

 エンメルコムギは一粒コムギと他の野生の草本が自然交配してできたらしい。

 収獲、植えつけの際に選択することによって、

 一粒系、エンメル系両コムギとも栽培種ができあがった。

 現在の六倍種コムギはおそらく、

 栽培種のエンメルコムギが別の野生種の草と交配して生まれたものと思われる。

 皮⊃まり穎が種子に密着しているか(皮性コムギないし穎性コムギ)、

 容易にとれるか(裸性ないし脱穀不要コムギ)によって

 いくつもの種類を識別することができる。

 オオムギにも皮性種と裸性種があるし、種子の小穂には二条、六条の区別もある。

 当然ながら,裸性つまり脱穀のいらない種の方が一般には皮性のものよりも好まれた。

 オオムギやコムギが野生種なのか栽培種なのかは形態だけみればわかることが多いが、

 他の可食植物ではこの違いの識別は簡単ではない。

 レンズマメ、カラスノエンドウ、エンドウなどのマメ類、イチジク、リンゴ、ナシなどの果物、

 あるいはカシの実、アーモンド、ピスタチオといった

 堅果類の場合は野生種と栽培種にほとんど違いがない。

 ただ、時代が下ると栽培種はより大形になっていく。

 多くの食用植物は考古学的証拠としてはめったに残らない。

 キャベツ、レタス、ホウレンソウ、タマネギ、ニンニクといった葉の多い植物、

 またメロン、キュウリ、キノコのような果肉類が考古学の発掘でみつかることはほとんどない。

 したがって,それらの栽培過程については推測するしかない。

 こういった理由から考古学者の関心は穀物栽培に集中してきている。

 現時点での証拠に基づくかぎり、

 穀物は最初に栽培化された植物の一つだといってよいが、

 マメ類もほぼ同時に栽培化された可能性が高い。

 穀物が他の植物と違う点として、

 乾燥させて、虫やげっし類がつかないようにしておけば

 長期間の保存がさくということもあげられる。

 熱したり煎ったりしておけば発芽を防ぐこともできる。

 こうした性質のおかけで、

 穀物は収穫に労力をつぎこむ時期とその見返りをえる時期をずらすことができる。

 したがって、値打ちはみなが認めるもので交換基準ともなるから、

 穀物はお金のような役目を果たすことができる。

 穀物を貯蔵し後で栽培するようになると、

 富の蓄積という可能性も生まれる。

 そうして、

 富に基づいて地位が決まるという社会を発震させることにもなるわけである。

 ナトゥーフ期の人々は野生の穀物や他の植物も採集していたのだが、

 他の動物から守るためにそれらを「栽培」していた可能性も高く、

 野生種のいくつかを植えていた可能性すらある。

 ナトゥーフ期の人骨の歯は摩耗が激しいが、

 それは食用植物の調理時に磨石を多用していたために

 食料に石粒が入っていたことの表れとされている。

 彼らの骨中のストロンチウムとカルシウムの比も肉食動物よりも草食動物に近く、

 食料の大半が植物で構成されていたことが示唆されている。

 多くのナトゥーフ期遺跡の住人も特定の野生動物を捕まえていた。

 エル・ワドナハル・オレン遺跡では出土した

 動物骨のうち80%がガゼルであったし

 ユーフラテス川流域のアブ・フレイラでも

 (ここはガゼルの自然同遊伊終点に位置していたらしい)

 65%の骨がガゼルのものであった。

 ヨルダン南部、ペトラ近郊のベイダ遺跡ではヤギが主要な獲物たった。

 一方,ヨルダン渓谷のアイン・マラッハの動物骨には

 ガゼル(44%)のほか、コジカ、黄ジカ、イノシシの骨があり、

 野生のウシ、ヤギ、キツネ、ハイエナ、ウサギも少量だが含まれていた。

 アイン・マラッハでは

 鳥、魚、カタツムリ、カラス貝、ヘビ、カメ、げっし類などもみつかっている。

 ただ、それらがすべて食用であったのではなかろう。

 植物の栽培化同様、家畜化は動物に影響を与えた。

 何世代も経るうちに骨に変化が生じ、

 それによって動物考古学者たちは野生種と家畜種の区別ができるようになってきている。

 家畜化の証拠はほかにもある。

 たとえば、

 自然生息地以外のところに動物がみつかること、大ささの違い、

 群れの構成の変化、種類間の割合の変化などがあげられよう。

 しかしながら、こうした変化には家畜化によるもののみではなく

 気候の変化で生じたものも含まれている可能性がある。

 最終氷期が終わると動物の多くは小形化しているが、

 これは、おそらく温暖化した気候に適応した結果であろう。

 しかし、一方で小さい動物の方が家畜化に好まれたということも考えられる。

 ナトゥーフ期の遺跡からみつかる動物骨には圧倒的に野生種が多い。

 しかしながら、アイン・マラッハ、およびその南西のハヨニム遺跡の前庭部からは、

 現代のオオカミよりも小さく、おそらく「人類最良の友」(今や最古の友ともいえる)

であった家イヌらしざ骨がみつか⊃でいる。

 これは考古学者の定量的な分析の結果わかったものである。

 アイン・マラッハでは同じ時期、前1万年頃の層から、

 3-5ヵ月の「小犬」と一緒に葬られた老女の骨がみつかっている。

 その骨がオオカミのものなのかイヌのものなのかはわからなかったが、

 その動物がその老女と緊密な関係にあったことは明らかである。

 ナトゥーフ期の遺跡からみつかる動物骨には、

 それ以前と違って、噛み跡が残つていることがよくあるが、

 これもイヌがいた証拠の一つといえる。

 しかしながら、イヌ自体の骨は比較的少ない。

 これは,イヌが食用ではなく狩猟用として飼われていたためと考えられる。



 北東イラク、パレガウラ洞窟ではイヌの顎骨がみつかっている。

 これは若干、時代のさかのぼる

 前1万1000年頃ザルジ文化のものとされてきたが、時代が下る可能性もある。

 ナトゥーフ期の人々が動物を飼育し植物を栽培していたかどうかは、

 専門家の間でも議論の分かれるところで、それを示す十分な証拠はない。

 《参照》

 「図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア」
 「メソポタミア」
 「シュメル=シュメール」
 「ウワイト」
 「シュメル-人類最古の文明:『小林登志子』中公新書」

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2012年2月22日水曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(7)



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・18~27頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

  初期農耕牧畜民(前1万2000~7000年)
 
 《近東の初期集落

 近東における狩猟採集民から農耕牧畜民への移行は

 レヴアント地方、パレスティナ地方でもっともはっきリしている。

 過去40年の間、考古学者は野外調査をこまめにつづけ

 イスラエルで数多くの遺跡を発掘してきたのに対し、

 近東の他の国での調査例はごく少ない。

 こうした研究上の不均等を頭にいれてもレヴアント地方、バレスティナ地方は

 農耕牧畜の発展にとって決定的に重要な地域であったとみられる。

 近東で古い遺跡は洞窟、短期的な野営地であるか、または作業場などである。

 パレスティナのケバラー期前1万8000~1万1000年)の証拠が示すように、

 最終水期が終わるとより定住的な村落遺跡が一般的になった。

 ガリレー湖東岸アイン・グェヴⅠという1 万5000年前くらいの遺跡がある。

 ここでは円形の住居跡と思われる基礎がみつかっており、

 そこから穀物をすりつぶすための磨石がいくつか、石皿が一つ、

 そして穀物や葦を刈リ取ることによって

 できる特徴的な光沢がついた鎌刃などが出土している。

 ケバラー期の人々は野生動物の狩猟も行っていたが、

 特定の種類のものを捕まえることが多かった。

 たとえば、カルメル山のナハル・才レンという遺跡では、

 そこでみつかった骨のうち4 分の3 近くはガゼルのものであった。

 一方、ぺトラ近郊のワディ・マグマグ遺跡では

 80 %以上の動物骨が野生のヤギでしめられていた。

 しかしながら、磨石類が存在していることから、

 植物穀物が食料資源の重要な一部となっていたことがわかる。

 穀物は非常に栄養価が高いが外側には消化不能な固い皮がついている。

 人々は、それらを食べられるようにするために、

 あぶったり粉になるまですりつぶしたりした。

 あぶった場合には低温のお湯でオートミールかゆのように調理し、

 製粉したときには水とまゼて高温で焼いた。

 鎌はいくつかのフリント石刃を1 本の木材ないし骨裂の柄につけてつくられ、

 野生の穀物を収穫するのに使われたらしい。

 しかし穀物の茎を切ると実が落ちてしまう危険性があるから、

 熟した実を手でむしり取る方がおそらくよリ効率的であっただろう。

 同じようなフリント製石器は

 トルコやの同時期の遣跡でもみつかっているが、

 植物調理道具に対応する遺物はえられていない。

 「写真」

  凶暴な野生のウシは、

  もともと宗教的な目的、ないし肉、皮、骨、角をとる目的で

  家畜化きれたものと考えられている。

  しかし新石器時代はじめには、おそらく乳牛、役畜として

  飼われるようになっていた。

  雄ウシ(去勢されたもの)は今日でも、

  耕作、砕土、脱穀、伊車曳きなどに広く用いられている。

 「写真」

  穀物栽培は新しい技術を必要とした。

  たとえば、フリント製鎌刃や磨石を使った刈り取りや製粉作業である。

  そうしたもののいくつかはザグロス山脈考古学的遺跡に残る。

  しかし、木器を使って、集落から離れたところで行われた風選のような作業は、

  考古学的記録にはほとんど痕跡が残らない。

 《参照》

 「図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア」
 「メソポタミア」
 「シュメル=シュメール」
 「ウワイト」
 「シュメル-人類最古の文明:『小林登志子』中公新書」

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2012年2月21日火曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(6)



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・18~27頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

  初期農耕牧畜民(前1万2000~7000年)

 《農耕の起源

 何百万年もの問、人類は狩猟や死肉あさり

 植物採集によって生計をたてていたが、

 その間に技術的な躍進は多々あった。

 解剖学的な現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)が出現してからは、

 進歩のべースは加速化し、

 前2万年までには地球上の全大陸に人類はいき渡っていた。

 人類が自然に対して働きかける能力はどんどん増してしいった。

 それは.3 万年前以降に顕著で石器製作技術は改良されより洗練されたし、

 集落の定住性も高まった。

 あるいは葬送儀礼、洞窟壁画などにみられるように

 社会的行動もより複雑なものになっていった。

 こうした能力が農耕を生業方式として採用するための

 必要条件となったといえよう。

 人々は狩猟採集民であったとき動植物を利用していたわけだが、

 それらを育てることはあまりなかった。

 どんな捕食動物でも主要な食料資源が減っていけば、

 自分自身が絶減の危機にさらされることは明らかである。

 実際には、人々は古くからある程度の栽培・飼育らしきものを行っていた。

 たとえば、若い動物や小さい魚をとらないでおいたり、

 特定の種のものを保護したりはしていた。

 しかしながら本格的な馴化というのは対象が動物であれ植物であれ、

 それが人間に依存して生きながらえることをいう馴化の初期の段階として、

 まず人々は野生の動植物を育てた。

 しかし、次には植物の収穫・播種・動物の飼育の際に選択を加えたために変化が生じ、

 新しい種類、品種が生みだされた。

 こうした変化は考古学遺跡からみつかる植物遺存体、動物骨にも認められ、

 それによって野生種と栽培・家畜化されたものとを離別することができる。

 ただ、動物・植物遣存体の同定、解釈は専門家の間でも議論のタネであり、

 なにかみつかったとき、みながいつも同じ見解をとるわけではない。

 考古学遣跡において植物の種子や動物骨をきちんと回収するようになったのは、

 たかだか、ここ40 年くらいのことである。

 それ以前には、

 考古学者は石器製作技術などに違いをみつけて時代区分することに力をいれていた。

 前期石器時代には石器は打ち欠きによってつくられていたが、

 新石器時代(後期石器時代)に擦ったり磨いたりしてつくられるようになった。

 その他の変化も、ほぼ同じ時期におこっている。

 たとえば、家々のたち並ぶ集落土器の使用墓地に死者を埋葬することなどである

 (同様の発展はインド、中国、アフリカ、アメリカでもみられたのだが、

  もっとも早かったのは近東である)

 農耕牧畜がなぜ、この時朗に発展したのかを考察してみることは興味深い。

 寒暖のくり返された氷河時代の古い時期でも農耕牧畜は可能だったはずである。

 しかしながら、最終氷期が終わった頃

 初めて人類は社会的・技術的な基礎を十分に発達せしめ,

 それによって気侯地形が提供してくれる機会を利用できるようになったのである。

 とくに言語の使用は重要だった。

 それは10 万~2 万年前に発展したものだが、

 情報を交換したり世代間に伝えていくのに決定的な役割を果たしたことであろう。

 しかしながら、石器時代人を

 初めて植物栽培・動物家畜化に駆り立てたものはなんだったのだろう。

 それは、議論もあろうが、

 そうした生活様式がその後も利用されつづけた理由とは違うものだったようだ。

 最近の研究によれば、

 農耕牧畜民は生きていくのに十分な食料をえるために

 狩猟採集民よりも余計に働いているし、

 農耕牧畜で食料が簡単にあるいはより多くえられるわけでもない。

 しかし一方でより定住的な生活をすればより大きな社全的集団を生むことになりうるし、

 子供の幼児死亡率を低下させることにもなる。

 母親が集団とともに移動する必要がないからである。

 それに農耕牧畜ならば食料供給をよリ直接的に調節することもできる。

 農耕牧畜生活にはこのほかにも当初予想もしなかった利点があり、

 最終的には地球の果てのもっとも住みにくいところを除いて全世界に広がっていった。

 たとえば、ヒッジは当初はおそらく肉・皮・骨を目的として飼育されていたが、

 選択飼育を通して、ミルクや羊毛をとるのに役立つ動物に変わっていったのである。

 《近東の初期遺跡

 最終水期が終わると、人々は野生種のコムギ、オオムギその他の植物が自然に生えていて、

 しかも動物も取れところに集落を構え始めた。

 そうした遺跡のほとんどは、野生のコムギ、オオムギが今日でも生育しているところにある。

 そうした地域は雨量の関係で、南部に限走されている。

 パレスティナ地方で多くの遺跡が発見されているのは、

 そこで考古学的調査が盛んであること、

 その地域が実際に

 続石器時代(前約1万8000~9300年)に重要であったこと、の両方が理由になっている。

 次の原新石器時代(前9300~8500年頃)には、

 コムギ、オオムギとも裁培化されていたものと思われる。

 「写真」シリア西部のオアシス

  水があれば近東の不毛な大地も肥沃な土地にかわり、

  果樹園や菜園が営める。

  水は川や泉からえられる。

  そうした水源が枯れてしまえば、土地も再び砂漠に戻ってしまう。 

 《参照》

 「図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア」
 「メソポタミア」
 「シュメル=シュメール」
 「ウワイト」
 「シュメル-人類最古の文明:『小林登志子』中公新書」

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2012年2月20日月曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(5)



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・18~27頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

  初期農耕牧畜民(前1万2000~7000年)

 《気候と環境

 過去の気候に関する証拠は多々あり、 かつ多様である。

 たとえば海中における二つ16O、16Oの酸索同位体の割合によつて

 極地に貯えられていた水量がわかり、

 それによって地球規換での気温を知ることができる。

 同様に、沈降作用による堆積物が厚く積もっている場合、

 それは河川水量の増加を意味するから、降雨量が多かったということになろう。

 もっとも有効な研究法の一つは、

 古代の湖の堆積物中に残っている植物花粉を同定することである。

 これによって植生の変化を復元することができる。

 そうした分析結果は地域ごとに一致しないようで、

 それをどう解釈したらよいのかについては議論のあるところではあるが、

 おおまかな様相はつかむことができる。

 氷床が後退し,海水面が上昇するとともに気温も急速に上昇した、

 前1万2000 年から8000 年の間に10℃近くも上がっており、

 後には現在よりも1、2度高くなった。

 氷河時代には北部の山脈地帯の植生はほぼ草原となっており、

 気候は寒冷かつ乾燥していた。

 その後気候は温暖かつ湿潤になっていき、分厚い森林が成長し始めた。

 そうして6000年前くらいまでには今日のように力シなどの木々が

 ザグロスやタウルスの山脈地帯をおおうようになった。

 南部でも氷河期の乾燥・寒冷な気候がより湿潤・温暖な気候へと変化し

 より多くの木々が生育するようになった。

 しかしながら前1万1000年頃までには雨量は少なくなり、

 広大な地城が再び草原や砂漠に戻ってしまった。

 ここ1万年くらいは近東では気候植生とも現在のものとほとんど変わっていない。

 この地方ては四つの特徴的な地域が帯状に認められる。

 まず山岳地帯である。

 ここでは落葉性針葉樹が、カシ、マツ、スギ、トショウなどと混じりあって生い茂っており、

 気候は冬が湿潤・寒冷、夏が乾燥したものであった。

 一方山麗地帯は地中海岸からタウルス,ザグロス山脈のふもとにまで広がっていて,

 冬の気候はおだやかで湿潤、夏は暖かいが乾燥していた。

 植生はかなり開けた地中海性森林で、力シ、マツ、テレビンノキなどの木々、

 また後に栽培化されることになるオオムギ・コムギなどの野生種を合む草本類が生育していた。

 山麓地帯の東南の縁辺部およびイラン・トルコ高原には草原地帯が広がっていた。
 
 気侯は、冬はおだやかで乾燥し、夏は暑くて乾燥したものであった。

 ここには木々はほとんど生育しておらず、草原が広がっていた。

 最後に、アラビア、イラン内陸部の砂漠地帯があげられる。

 ここでは冬はおたやかで乾繰し夏は暑く乾燥しているという気候が発達していたが、

 植物はほとんどなにも生育していなかった。

 こうした地帯間の境界は細かな気候変化にともなって変動はしたが、

 大きくみれば一定でありつづけた。

 ただ河川の流路の変化、湖沼や泉の干上がり、

 砂丘の移動などが狭い地域で変化をおこしたことはあったでおろう。

 さらにいうと、ここ1 万年間に家畜の過剰放牧、森林伐採、人工的な流水路変更など

 人間の干渉が環境を徐々に変えつつある。

 恒常的な水場は生物にとってとくに好適な領域である。

 面積的には小さくとも、それは初期人類にとっても非常に重要な場所であった。

 その種の地域には、海水性・淡水性の生物(動物植物とも)の豊富な海岸湖岸地域、

 タマリスクなどの木々が茂り薮が生えている河川ぞいの地域、

 泉のあるオアシス、あるいは湿原などが合まれる。

 ちなみにべルシア湾先端部近くの湿原では、ナッメヤシの野生種が生えていた可能性がある。

 近東には陸生動物もたくさんいた。

 草原地帯にはガゼル、黄ジカ、野生ロバ、野生ウシなどの群れが生息していた。

 アカシカ、コジカ、野生ヒツジ、野生ヤギなどは山岳地帯により多く住んでいて、

 イノシシは湿潤な環境に生息していた。

 こうした動物を捕まえて生きていた動物には

 ジャッカル、オオカミ、クマ、ハイエナ、チータ、ヒョウ、トラ、ライオンなどがいた。

 小形の哨乳類には

 キッネ、ノウサギ、ヤマネ、コヤマアラシあるいはさまざまな種のげっし頬がいた。

 意外なことにいなかった動物が2種類あるが、それはラクダとウマである。

 それらは水河期に絶滅してしまい、次に現れるのは前3 干年紀であった。

 両生頬や爬虫類は一般的で、カメ、へビ、トカゲ、カ工ルなどがいたし、

 河川、湖沼、海には魚や貝類が生息していた。

 また地中海岸やべルシア湾岸は、

 ロシアからアフリカへの移動路上にあったため多くの渡り島がやってきていた。

 大形の鳥類では

 ダチョウ、ガン、イワシャコ、アヒル、ガチョウなどが有用な食料源となっていた。

 《近東の気候

 近東の雨は西風でもたらされる。

 丘陵や山脈などに風が最初にぶつかったときに雨が降。

 内陸部の多くはいわゆる「雨の陰」に位置している。

 だからたとえばカスビ海の東部やアラビア砂漠ではほとんど雨が降らない。

 トルコとカスピ海の沿岸部を除くと、

 雨のほとんどは冬の間に降り、6 月から9 月までは降雨はない。

 近東の気温は南にいくほど高く緯度とともに低くなる。

 夏と冬の気温はかなり違う。

 海岸部でその差は15℃だが、山岳地帯では25℃にもなる。

 イランやトルコの高山の多くは冬場は雪に埋もれてしまう。

 《参照》

 「図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア」
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2012年2月19日日曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(4)



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・18~27頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

  初期農耕牧畜民(前1万2000~7000年)

 《海水面の変化

 こうした地形は数十万年という年月の間に形つくられてきたものだが、

 決定的な変化がおこったのは最終氷期の末である。

 氷河期には巨大な氷原が極地をおおっており、

 海水を相当量ためこんでいたために海水面は現在よリも100m 以上低くなっていた。

 それが1万6000年ほど前に上昇し始めた。

 近東の海はほとんどの地域で急に深くなっているため、

 海岸線の変化はそれほど大きなものではなかった。

 しかし、ぺルシア湾地城では浅瀬がつづくから

 タウルス、ザグロス山脈から流れてくる川は

 以前よりずっと海に捜近することになった。

 南メソポタミアとエジプトの三角州地帯ができあがったのも、

 海水面がほぼ現在の高さに落ち着いてからのことである。

 海水面の上昇は急速でおおよそ100 年にl m 高くなっていき、

 前4000年頃に現在のような水位に達している。

 それ以後はせいぜい1-2m の変化しかない。

 こうした急速な水位上昇は結果として、

 ぺルシア湾地城や南メソポタミア平原の古い遺跡

 分厚い堆積物の下に埋めこんでしまうことになった。

 したがって、もし古い時代の遺跡を探すとするなら

 地形がそれほど変化しておらず、

 遺跡が容易に発見できる地域を調査する必要がある。

 《近東の植生》

 この地図では自然植生、

 すなわち人間の干渉がなかったならばこうであったろうという植生を示している。

 植生は降雨量の違いに左右されるところが大きい。

 近東の多くの流域では、雨量は非常に少なく、砂漠が広がっていて、

 人が住むのには適さない。

 裁くの端は山麓部へとつながっているが、山すそ一帯の植生は草原で、

 草や木が生えている。

 一方、山腹には木々が生い茂る。

 過去に人々が住んでいた地域は今日のものと一致している。

 このことから、研究者たちは、ここ1万年間ほど、

 気候にも植生にも大さな変化力がなかったものと考えている。

 ただし、 過剰牧畜、森林伐採、農耕など人間による自然環境の破壊は別である

 《参照》

 「図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア」
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2012年2月18日土曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(3)



『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・18~27頁
マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
朝倉書店

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

初期農耕牧畜民(前1万2000~7000年)

《地形》

上記のような地質活動、あるいはより最近の水・風・氷などの作用のために、

近東の地形は実に多様なものになっている。

北をみるとトルコ・イランでは山脈に囲まれた海抜2000mくらいの高原がある。

トルコには大きな山脈が東西に二つ走っている。

黒海側のポントス山脈と地中海側のタウルス山脈である。

この両山脈の間のトルコ高原は海抜500mを超える。

この高原は西から東に向かって高くなっていく。

トルコ東部ではこれら両山脈が合体し、さらにイランの二大山脈に接する。

北にあるのがアルポルズ山脈で力スピ海南岸にそって走っている。

もう一つのザグロス山脈は北西から南東にかけて走っており、

メソポタミア低地とイラン高原の境になっているこれらの山脈は海抜約4000m にも達し、

いくつかのよリ高い死火山が項上となっている。

それらにはトルコ・イラン・アルメ二アにまたがるアララト山(5125m ) 、サヴァラン山(4810m ) 、

パキスタン国境に位置するタクフタン山(4042m)がある。

そしてもっとも高いのは、イラン、アルボルズ山脈にそびえるデマヴアンド山(5671lm)である。

イラン高原の中央には力ヴィル、ルートという大きな不毛の砂漠が二つある。

トルコイランの山脈地帯の南側では地形はそれほど厳しくない。

ここでは急峻な山脈のかわリにメソポタミア平原が広がっている。

土地は南東端のぺルシア湾からユーフラテス川にそって北西へと高くなっていく。

最終的には北に向かいタウルス山脈にぶっかるのであるが、

それでも1200km の距離に対して上昇分はわずか400mにすぎない。

南の下メソポタミア平原はほとんど平坦であり、

ユーフラテス川、ティグリス川、その他の北や東の山脈から流れでた

川によって運ばれてきたシルトで形成されている。

一方上メソポタミアの地形はゆるやかな起伏をもった平野となっている。

シリア、レバノン、バレスティナの地中海沿岸はよリ山岳的である。

もっとも高い山はレバノン領にあリ海抜3000m 以上にもなる。

そうした高地は南北に走る断層によって分断されており、多様な地形をつくりだしている。

断層はヨルダン渓谷死海(海面下300m)、アラバ涸谷を形成し、紅海へとつながっていく。

アラビア半島、紅海沿岸にはさらに多くの山々が走る。

紅海北端にあるヒジヤーズ山脈は海抜2000m を超える。

一方南端には海抜3500m のイエメンアシル山脈が位置している。

地形はこの地械からメソポタミア平原ぺルシァ湾に向かって徐々に下降していく。

ただべルシア湾の出口にはオマーン高山地帯があってそこだけは海抜3000m を超える。

初期農耕牧畜民(前1万2000~7000年)

「地中海側のタウルス山脈」

《参照》

「図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア」
「メソポタミア」
「シュメル=シュメール」
「ウワイト」
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