2012年4月15日日曜日

古代のメソポタミア:イェリコ



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・32頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

 《新石器時代の村
 「新石器時代の村

 イェリコ
 イェリコ
 イェリコ
 イェリコ
 イェリコ

 イェリコという古代遺跡(テル・アル・スルタン)は、

 海面下約200mの地にある。

 今日、イェリコはヨシュアが角笛を吹き、

 城壁が陥落した都市として有名である。

 しかし、前2千年紀後半のイスラエル人の侵入よりずっと前から、

 そしてその後もずっと重要な都市でありつづけていた。

 イェリコが繁栄したのは、

 遺跡東側にあった豊富な泉のおかけであった。

 最初に住んでいた人々の痕跡は

 後の時代の堆積に深くおおわれていたため、

 二、三の地点でしか調査されていない。

 だがその調査によって、

 ナトゥーフ期に人が住みついた後、

 原新石器時代(先土器新石器時代A期)、

 無土器新石器時代(先土器新石器時代B期)、
 
 そして青銅器時代を通して

 イェリコは重要な中心地であったことがわかっている。

 「写真」

 無土器新石器時代のイェリコは、

 死者はふつう頭部を取り外し住居の床下に埋められた。

 頭部の取り外しは、おそらく肉や腱が腐る前に行われた。

 というのは、ふつう顎骨が胴体の骨にくっついてるからである。

 床下からみつかった骨のなかには、漆喰で顔をつつみ

 窩に貝をはめこんだものも次ある。

 二枚貝であることもある。

 「図」

 原新石器時代のイェリコは石の城壁と

 岩盤に掘り込んだ濠によって囲まれていた。

 円形住居が立ち並ぶ村が3haほど広がっていて、

 おそらく1500人くらいの人々が住んでいた。

 イェリコの発展ぶりは早熟ともいえるもので、

 大きさで匹敵する遺跡はこの時期、
 
 ほかになかった。

 次の無上器新石器時代になってようやく、

 他の遺跡も同じくらい大きく、あるいは複雑なものになった。

 「写真・図」

 原新石器時代のイェリコで、

 もっとも注目すべき遺構は

 城壁の内側につけられた石の塔である。

 それは直径が10m、現存高が8m以上にも達している。

 入口は東側の高さ1.7mのところにあり、22段の階段が通じている。

 段はそれぞれ1枚の石の板でつくられている。

 城壁は何度も修復、再建されている。

 また、その外側には、幅8m、深さ2m以上ある堀が

 地山に掘り込まれていた。

 塔の役割については、まだ議論の対象になっている。

 言語復原史学会
 言語復原史学会
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 『参照ブログ』
 古代メソポタミア
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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