2012年2月21日火曜日

古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(6)



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・18~27頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民

  初期農耕牧畜民(前1万2000~7000年)

 《農耕の起源

 何百万年もの問、人類は狩猟や死肉あさり

 植物採集によって生計をたてていたが、

 その間に技術的な躍進は多々あった。

 解剖学的な現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)が出現してからは、

 進歩のべースは加速化し、

 前2万年までには地球上の全大陸に人類はいき渡っていた。

 人類が自然に対して働きかける能力はどんどん増してしいった。

 それは.3 万年前以降に顕著で石器製作技術は改良されより洗練されたし、

 集落の定住性も高まった。

 あるいは葬送儀礼、洞窟壁画などにみられるように

 社会的行動もより複雑なものになっていった。

 こうした能力が農耕を生業方式として採用するための

 必要条件となったといえよう。

 人々は狩猟採集民であったとき動植物を利用していたわけだが、

 それらを育てることはあまりなかった。

 どんな捕食動物でも主要な食料資源が減っていけば、

 自分自身が絶減の危機にさらされることは明らかである。

 実際には、人々は古くからある程度の栽培・飼育らしきものを行っていた。

 たとえば、若い動物や小さい魚をとらないでおいたり、

 特定の種のものを保護したりはしていた。

 しかしながら本格的な馴化というのは対象が動物であれ植物であれ、

 それが人間に依存して生きながらえることをいう馴化の初期の段階として、

 まず人々は野生の動植物を育てた。

 しかし、次には植物の収穫・播種・動物の飼育の際に選択を加えたために変化が生じ、

 新しい種類、品種が生みだされた。

 こうした変化は考古学遺跡からみつかる植物遺存体、動物骨にも認められ、

 それによって野生種と栽培・家畜化されたものとを離別することができる。

 ただ、動物・植物遣存体の同定、解釈は専門家の間でも議論のタネであり、

 なにかみつかったとき、みながいつも同じ見解をとるわけではない。

 考古学遣跡において植物の種子や動物骨をきちんと回収するようになったのは、

 たかだか、ここ40 年くらいのことである。

 それ以前には、

 考古学者は石器製作技術などに違いをみつけて時代区分することに力をいれていた。

 前期石器時代には石器は打ち欠きによってつくられていたが、

 新石器時代(後期石器時代)に擦ったり磨いたりしてつくられるようになった。

 その他の変化も、ほぼ同じ時期におこっている。

 たとえば、家々のたち並ぶ集落土器の使用墓地に死者を埋葬することなどである

 (同様の発展はインド、中国、アフリカ、アメリカでもみられたのだが、

  もっとも早かったのは近東である)

 農耕牧畜がなぜ、この時朗に発展したのかを考察してみることは興味深い。

 寒暖のくり返された氷河時代の古い時期でも農耕牧畜は可能だったはずである。

 しかしながら、最終氷期が終わった頃

 初めて人類は社会的・技術的な基礎を十分に発達せしめ,

 それによって気侯地形が提供してくれる機会を利用できるようになったのである。

 とくに言語の使用は重要だった。

 それは10 万~2 万年前に発展したものだが、

 情報を交換したり世代間に伝えていくのに決定的な役割を果たしたことであろう。

 しかしながら、石器時代人を

 初めて植物栽培・動物家畜化に駆り立てたものはなんだったのだろう。

 それは、議論もあろうが、

 そうした生活様式がその後も利用されつづけた理由とは違うものだったようだ。

 最近の研究によれば、

 農耕牧畜民は生きていくのに十分な食料をえるために

 狩猟採集民よりも余計に働いているし、

 農耕牧畜で食料が簡単にあるいはより多くえられるわけでもない。

 しかし一方でより定住的な生活をすればより大きな社全的集団を生むことになりうるし、

 子供の幼児死亡率を低下させることにもなる。

 母親が集団とともに移動する必要がないからである。

 それに農耕牧畜ならば食料供給をよリ直接的に調節することもできる。

 農耕牧畜生活にはこのほかにも当初予想もしなかった利点があり、

 最終的には地球の果てのもっとも住みにくいところを除いて全世界に広がっていった。

 たとえば、ヒッジは当初はおそらく肉・皮・骨を目的として飼育されていたが、

 選択飼育を通して、ミルクや羊毛をとるのに役立つ動物に変わっていったのである。

 《近東の初期遺跡

 最終水期が終わると、人々は野生種のコムギ、オオムギその他の植物が自然に生えていて、

 しかも動物も取れところに集落を構え始めた。

 そうした遺跡のほとんどは、野生のコムギ、オオムギが今日でも生育しているところにある。

 そうした地域は雨量の関係で、南部に限走されている。

 パレスティナ地方で多くの遺跡が発見されているのは、

 そこで考古学的調査が盛んであること、

 その地域が実際に

 続石器時代(前約1万8000~9300年)に重要であったこと、の両方が理由になっている。

 次の原新石器時代(前9300~8500年頃)には、

 コムギ、オオムギとも裁培化されていたものと思われる。

 「写真」シリア西部のオアシス

  水があれば近東の不毛な大地も肥沃な土地にかわり、

  果樹園や菜園が営める。

  水は川や泉からえられる。

  そうした水源が枯れてしまえば、土地も再び砂漠に戻ってしまう。 

 《参照》

 「図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア」
 「メソポタミア」
 「シュメル=シュメール」
 「ウワイト」
 「シュメル-人類最古の文明:『小林登志子』中公新書」

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 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状  

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