日本の古代史(日本書紀・古事記等)には謎が多く、特に大化の改新(乙子の変)以前の歴史にはそれが顕著です。 日本の古代の歴史を解明するためには、古事記、日本書紀など日本の古代史料は元より、朝鮮の三国史記・三国遺事&中国の魏書倭人章などとともにインド、メソポタミア、ギリシアなどの古代史料までも遡り、また日本語にはシュメル語、ギリシア語、サンスクリット語、パーリ語、マレー語等が包含され、沖縄語、薩摩語、大隈語、また関西弁、河内弁、東北言葉など多岐多様にわたっていますこれらを基にして言語復原の手法で古代史を解明します。
2012年2月25日土曜日
古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(9)《ナトウーフ期集落のパターン》
『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・27~30頁
マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
朝倉書店
古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
《ナトウーフ期集落のパターン》
近東には野生の穀物が現在でも生育している。
熟したときに2-3週間もあれば、
一家族が一年間食べるくらいの量を集めることができる。
しかしながら、穀物の生育地を移動させることはむずかしいし、
磨石など重い装置が必要なことから、
ナトウーフ期には定住生活が好まれたものと思われる。
集落には一年中居住することもあったろうし、
ある期間だけのこともあったであろう。
村落や野営地は野生穀物の生育地に設営されたが、
より短期的な野営地が狩猟を目的として別のところに営まれることもあった。
集落遺跡には開地のものと、岩陰の前庭部のものとがあった
開地遺跡の場合、
建物は簡素で、木の柱で屋根を支えた小屋のようなものだったが、
地中にlm以上も掘りくぼめてつくるのが一般的であった。
その方が建築も楽だし、断熱・防寒にもなったからである。
家にはふつう、炉が一つ備えられ、
床面には石が敷きつめられた。
アイン・マラツハの例では、
家の直径は3.5-5mくらいである。
建て替えもさかんにみられるから、
一年中居住していたのだろう。
この遺跡では9軒の家がみつかっているが、
実際には50軒以上立ち並んでいて、
200人-300人くらいの人々が住んでいたものと思われる。
現在の狩猟採集民は一集団あたり30人くらいだから、
それよりもはるかに大きな集団だったわけである。
家の床下から何人分かの人骨がみつかっているが、
集落から離れたところに埋葬することもあった。
単葬もあれば、
数人分を複葬することもあった。
副葬品はまれだったが、
個人の装飾品は身につけたまま埋葬するのがふつうで、
貝や骨のビーズでつくった
頭飾り、ネックレス、ブレスレット、足首飾りなどがあった。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿