日本の古代史(日本書紀・古事記等)には謎が多く、特に大化の改新(乙子の変)以前の歴史にはそれが顕著です。 日本の古代の歴史を解明するためには、古事記、日本書紀など日本の古代史料は元より、朝鮮の三国史記・三国遺事&中国の魏書倭人章などとともにインド、メソポタミア、ギリシアなどの古代史料までも遡り、また日本語にはシュメル語、ギリシア語、サンスクリット語、パーリ語、マレー語等が包含され、沖縄語、薩摩語、大隈語、また関西弁、河内弁、東北言葉など多岐多様にわたっていますこれらを基にして言語復原の手法で古代史を解明します。
2012年2月18日土曜日
古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民(3)
『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・18~27頁
マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
朝倉書店
古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
初期農耕牧畜民(前1万2000~7000年)
《地形》
上記のような地質活動、あるいはより最近の水・風・氷などの作用のために、
近東の地形は実に多様なものになっている。
北をみるとトルコ・イランでは山脈に囲まれた海抜2000mくらいの高原がある。
トルコには大きな山脈が東西に二つ走っている。
黒海側のポントス山脈と地中海側のタウルス山脈である。
この両山脈の間のトルコ高原は海抜500mを超える。
この高原は西から東に向かって高くなっていく。
トルコ東部ではこれら両山脈が合体し、さらにイランの二大山脈に接する。
北にあるのがアルポルズ山脈で力スピ海南岸にそって走っている。
もう一つのザグロス山脈は北西から南東にかけて走っており、
メソポタミア低地とイラン高原の境になっているこれらの山脈は海抜約4000m にも達し、
いくつかのよリ高い死火山が項上となっている。
それらにはトルコ・イラン・アルメ二アにまたがるアララト山(5125m ) 、サヴァラン山(4810m ) 、
パキスタン国境に位置するタクフタン山(4042m)がある。
そしてもっとも高いのは、イラン、アルボルズ山脈にそびえるデマヴアンド山(5671lm)である。
イラン高原の中央には力ヴィル、ルートという大きな不毛の砂漠が二つある。
トルコイランの山脈地帯の南側では地形はそれほど厳しくない。
ここでは急峻な山脈のかわリにメソポタミア平原が広がっている。
土地は南東端のぺルシア湾からユーフラテス川にそって北西へと高くなっていく。
最終的には北に向かいタウルス山脈にぶっかるのであるが、
それでも1200km の距離に対して上昇分はわずか400mにすぎない。
南の下メソポタミア平原はほとんど平坦であり、
ユーフラテス川、ティグリス川、その他の北や東の山脈から流れでた
川によって運ばれてきたシルトで形成されている。
一方上メソポタミアの地形はゆるやかな起伏をもった平野となっている。
シリア、レバノン、バレスティナの地中海沿岸はよリ山岳的である。
もっとも高い山はレバノン領にあリ海抜3000m 以上にもなる。
そうした高地は南北に走る断層によって分断されており、多様な地形をつくりだしている。
断層はヨルダン渓谷、死海(海面下300m)、アラバ涸谷を形成し、紅海へとつながっていく。
アラビア半島、紅海沿岸にはさらに多くの山々が走る。
紅海北端にあるヒジヤーズ山脈は海抜2000m を超える。
一方南端には海抜3500m のイエメンアシル山脈が位置している。
地形はこの地械からメソポタミア平原ぺルシァ湾に向かって徐々に下降していく。
ただべルシア湾の出口にはオマーン高山地帯があってそこだけは海抜3000m を超える。
《初期農耕牧畜民(前1万2000~7000年)》
「地中海側のタウルス山脈」
《参照》
「図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア」
「メソポタミア」
「シュメル=シュメール」
「ウワイト」
「シュメル-人類最古の文明:『小林登志子』中公新書」
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